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川上正浩ブログ

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適応と麻痺とを対比する

 先回のブログの続きであるが,慣れることは,人間の偉大な能力であり,かつ,人間のものすごくダメなところでもあると思う。
 慣れるということをポジティブな面から記述するならば,これは“適応”という言葉で表現されるだろう。
 個人的には,心理学というのは「人間の適応とそれに対する制約について考える学問」であると思っている(これについても語りたいところであるが,今日のところはこれ以上展開しない)。
 環境のありようによって,その振る舞い方を変えるという人間のダイナミズムは,本当にすばらしいものであると思うし,研究の対象となるべきセンスオブワンダーに満ちていると思う。

 そうしたことを,もっとも如実に感じさせてくれるのが言語獲得の過程である。
 生まれ育つ環境によって,そこが日本語圏ならば日本語を,そこが英語圏ならば英語を,そこが中国語圏ならば中国語を,我々はたったの数年でそれなりに身につけることができる。
 そんなことがなぜ可能なのか,あるいは,そんなことがなぜ必要なのか,という問いに対する答えは,「そうすることが,その環境で生きていくためには必要であるから,あるいは,その環境で生きていくためにもっとも適応的であるから」ということになると思う。
 つまり,日本語圏で生きていくためには,日本語を使えるようになることが,もっとも適応的である。
 だから我々は,いわゆる母語をそれほど苦もなく習得することができるのだ(この話についても,もっと展開したいところだが,今日のところはこれ以上展開しない)。

 こんなふうに,人間の慣れるチカラは,人間の生活そのものを支える力であると言っても良い。
 しかし一方で,慣れることによって,我々は特定の刺激に対する感度を極端に鈍らせてしまうこともある。

 慣れるということをネガティブな面から記述するならば,これは“麻痺”という言葉で表現されるだろう。
 いわゆる「感覚が麻痺する」というような場合である。
 たとえば,誰かが自分に対して,してくれていることがあったとしよう。
 これに対して(あるいはそれをしてくれている人に対して),我々は通常,感謝の念をもつことになるが,このことが続くことによって,我々にとって,誰かが自分に対してそれをしてくれることは,“当たり前”のことだと感じてしまうようになる。
 そうなると,最初はあったはずの感謝の念も薄れてしまうことになるだろう。
 あるいは,恋愛関係などでときおりいわれる“マンネリ”なんていうのも,これと同じ意味合いでの“慣れる”ということではないだろうか。
 つまり我々は“慣れる”ことによって,本来なら気づいたり感じたりするはずの刺激に対する感受性が低下してしまうのだ。
 もちろんそれは,それこそ当たり前の話であって,一貫して存在する特定の刺激に対して反応し続けることは,往々にして「適応的ではない」ので,反応しないように,“慣れ”ていくことこそが“適応的”であるのだろう。

 とはいうものの,やはり日々の新鮮な感動みたいなものは,持ち続けていたいと思うし,そういう意味で“麻痺”と言い換えられるような“慣れ”は,極力避けたいものだなと思うのである。

 ちょっと今日のは難しい感じのブログになってしまったかな,と思う。
 しかし,このブログの読者の皆さんは,そろそろこうしたスタイルにも“慣れ”てくれていることを期待したい。
 なんだかちょっとうまくまとめてみたかな,って話ですけど。

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