先日のブログ(「八岐が読めないかもしれない」)では,仲谷先生に直々にコメントをいただき,恐縮したわけであるが,その折に「打球が股間を抜ける」話が展開された。
コメント欄でも少し触れたが,この話を展開している時に,大学院の頃に,先輩にうかがった話を思い出した。
その先輩は,当時水墨画を習っておられたのだが,“デッサン(?)”のコツのような話をうかがったのである。
デッサン,というのは,ちょっと水墨画というイメージとは違うのであるが,なにせ,目の前にあるものを“絵”として写す作業(むしろ“写生”と言った方が良いかもしれないが)であると思っていただきたい。
その先輩に教えていただいたのは以下のような話である。
その日,先輩は,自分の「左手」をデッサンする,という課題を師匠に与えられていた。
左手を宙に掲げて,それを見ながら右手で描くわけである。
ところが,なかなかに,自分の左手をうまく描くことができない。
すると,師匠が,こんなことを仰ったそうだ。
「手を見て,手の形を描こうとするからうまく描けないのだ。手の輪郭を描くのではなく,手の向こうに見えている空間の輪郭を描くつもりで描きなさい。」
この教えにしたがって,先輩は無事デッサンを終えたそうである。
うーん。
マスター・ヨーダのような教えである。
「フォースを信じるのじゃ」的な香りがする。
考えてみれば(というか考えるまでもなく),この場合の手の輪郭と空間の輪郭とは,結局は同じ輪郭線で構成されている。
しかしながら,手を“図”として(そして空間を“地”として)描こうとする場合と,空間を“図”として(そして手を“地”として) 描こうとする場合とでは,同じ輪郭であっても,その捉え方が異なる可能性をこの逸話は示しているのである。
あ,ちなみに“図”と“地”というのを少し説明しておかないといけない(珍しく丸投げしない)。
我々が何かの輪郭を知覚するとき,それはその輪郭をもつものに注目している,ということである。
つまり,我々が何かに注目したときには,それ以外のものは“背景”として知覚されている。
逆に言えば。背景の中に存在する何かが,きちんと輪郭をもって知覚されるとき,注目されるべき対象が“見つかる”のだ。
心理学では,我々が注目して知覚する対象を“図(figure)”と呼び,それ以外の背景にあたる部分を“地(ground)”と呼ぶ。
そして,背景の中からある対象を切り出すことを図と地の分化と呼んでいる。
さて。
繰り返しになるが, 手を“図”として(そして空間を“地”として)描こうとする場合と,空間を“図”として(そして手を“地”として) 描こうとする場合とでは,同じ輪郭であっても,その捉え方が異なる可能性,というのをこの逸話は示しているのである。
そして,なぜ捉え方が異なるのかと言えば,それはおそらく,我々が「手の形」を知っているからであろう。
我々が,その輪郭を,「手の輪郭」として捉えるとき,それは我々にとっては,既知の輪郭である。
なので,それを描こうとするとき,そこには,我々の「手の輪郭」に関する知識や先入観が入ってしまう。
これは,我々が「手の形」をありのままに写す際には,妨げになる可能性がある。
一方,その輪郭を“これまで図として捉えたことのない”「空間の輪郭」として捉えるとき,それは我々にとって新奇な形であり,我々は見たままを写す以外の方略をもたない。
そしてその“知識をもたないこと”が,「手の(あるいは空間の)形を写す」際には,むしろポジティブにはたらいているわけである。
心理学的にさらに展開するならば,これはボトムアップ的な処理とトップダウン的な処理とが,対立する場合があるということでもある。
トップダウン的な処理とボトムアップ的な処理について,ここで詳しく説明することはしないけれども,この場合に限定して言えば,目に見えている形を地道に写していく処理がボトムアップ的な処理であり,「手はこういう形をしている(はずだ)」というような知識に基づいて手の形を描いていこうとするのがトップダウン的な処理である。
通常,トップダウン的な処理は,我々の処理を効率化し,「迎えに行く」形で役に立っていることが多い。
しかしながら,この場合のように,トップダウン的な処理がはたらくことによって,かえって間違った方向に進んでしまうこともある,というわけである。
例によって,そんなつもりはなかったのに結局長くなってしまった。
「打球が股間を抜ける」話とはつながったのかつながらなかったのかよくわからないが,なんせ,「打球が股間を抜ける」というフレーズから,その某S先輩に聴いた話を思い出したわけなのである。
うーん,結局はただの思い出話か,って話ですけど。
コメント (4)
輪郭は常に図に属する、ということなのですが・・・
その先輩のエピソードには別の解釈もありそうです.
自分の左手を描こうとするとき、我々は両目で左手を観察するわけです.
このような至近距離ではいわゆる両眼視差が大きく現れます.試しに片目を閉じてみると、左右の目がずいぶん違う像を見ていることがわかるはずです.
ふだんは両眼からの情報は統合されて「立体的な左手」として知覚されるのですが、輪郭を描くというような局所的処理をしようとすると統合が崩れ、視野闘争が起きます.注意して観察すればするほどその影響を強く受けるはずです. ある時は右目の像、またある時は左目の像が優位になったりするのですが、それを元に絵を描くと、輪郭が曖昧になる、あるいは全体としてつじつまが会わなくなる、というような結果になります.
さて、ではどうするかという技術的なことですが.
簡単なのは「片方の目で見る」というやり方です.
とくに遠近法的な空間の構成を把握しようとするときには固定された視点から単眼で観察することが常道です.スケッチしている人が鉛筆を立てて景色を眺めたりしているのはこれですね.ちょっと意味は違いますが、近くにある物体をデッサンする時にも使える手です.
片方の目で眺めると近くの対象(つまり左手)は背景に投影されたのと同じで、一つの平面に置かれているように見えますから、輪郭を写すのは容易です.
しかし、先輩が教わったのは「心の置き所を移す」ということで、単なる技術を越えた奥義のようなものでしょう.まさにマスター・ヨーダの教えであったわけです.
坪内逍遥の「小説神髄」に「強ち(あながち)に外形になずみて総ての物類を描擬するにあらず」という文がありますが、「形になずむ(こだわる)」ことで本質を見失ってはいけないということだと思います.形を写すだけなら写真をなぞってもいいのですが、生きて立体的な左手を描破するには対象にとらわれず心を自在に遊ばせることを学ばなくてはならないのでしょうね.
投稿者: なかたに | 2008年12月31日 02:07
日時: 2008年12月31日 02:07
いつもながらの鋭いコメントありがとうございます。
そうした解釈には思い至っていなかったので,まさに心の置き所を移すような体験をさせてもらいました。流石です。
複眼的思考,と言ってしまえば,また技術的な感じになってしまいますが,こうした些細なことをいろいろな視点から「解釈」することにとても魅力を感じます。今後ともよろしくお付き合い下さい。
投稿者: 川上 | 2008年12月31日 10:40
日時: 2008年12月31日 10:40
いえいえ、いつも申し訳ありません.
ちかごろあまり心理学の話をしないもので、ネタを振られるとつい反応してしまいました.
来年もよろしくお願いします.良いお年を.
投稿者: なかたに | 2008年12月31日 13:32
日時: 2008年12月31日 13:32
いえいえ,こちらこそ,いつもお付き合いいただきありがとうございます。
やはりこういうネタのやりとりは楽しいです。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
投稿者: 川上 | 2009年1月 1日 00:38
日時: 2009年1月 1日 00:38