先日,某お役目関連の総会に出席していたのであるが,そこで提出された資料(の出来)について,少し学生さんと話をした。
どうも細かいことが気になる性質なので,細かいことが気になって仕方がない(トートロジーである)。
で,例によって「細かいこと」のダメ出しをいろいろとしていたのであるが,どうも学生さん達のリアクションからは,「そんな,細かいことは言わなくても…」みたいな雰囲気が漂ってくる。
そこで,そうではないのだ,という話をあらためてした。
たとえば,フォントが不揃いである(林檎はふぞろいでも良い)とか,語句の統一がされていないとか,こうしたことは,おそらく「細かいこと」の部類に入るだろう。
内容そのものとは,それほど大きく関係しない,という意見ももっともである。
しかし,である。
細かいこと,というのは,概してその修正やチェックに時間がかからないものである。
たとえば,先に挙げた語句の統一などについては,その気で見れば(というよりも,現在はワープロの検索置換機能があるので,実際にはコンピュータに見てもらえば良いのである),数分でチェックが出来るはずのことなのだ。
こうした,数分で出来ることが出来ていない,ということが問題なのであるのだと思う。
骨組みから組み直す時間がない,というような局面には,自分自身時として出逢う(と書くといかにも外的統制のようであるけれども,どのように時間配分しているか,等の問題を考えれば内的統制であることの方が多いかもしれない。外的統制とか内的統制とかについて,よくわからないという人は,Locus of controlという概念か,ワイナーという心理学者の帰属理論を調べて参照いただきたい。例によって教育的配慮に基づく丸投げである)ので,せめて,その辺りのことくらいは…という気持ちにどうしても(見る側としては)なってしまうのである。
レポートなどについてもまったく同じで,変換ミスといった「細かいこと」は,レポートにかけるリソース(この場合は具体的に“時間”ということになろうか)の足り無さを如実に物語ることになる。
ここが,見せてはいけない部分なのである。
発表・報告するからには,そのくらいのリソースは割いて,その場に臨んでもらいたいと思うし,自分としても,そうしたことを意識しつつ,資料などを作成していきたいと思う。
この辺り,実は先回のブログ(「読書を勧める(4)」)で紹介した本の主張ともつながるものであると思う。
当たり前で言わずもがなであるが,「細かいこと」と対比される意味での「大きなこと」が大切であるのはもちろんである。
細かいことにこだわればそれでよい,って話ではないので,念のため。
しかし,こうした「文書作成術」的な話を書くたびに,このブログそのものは…って話になるって話ですけど。