校正が終わらない

  最近とある文章(論文)の校正をしているのだが(例によってリアルタイムではない),なかなか完璧と思う状態にならない。

 これはおそらく正確な言い方ではなくて,何回「これで完璧!」と思っても(もちろんこれはイデア的な意味での“完璧”ということではなく,「今やれる最善」くらいの意味の“完璧”であるのは否めないが),次に見直すと納得のいかない点が出てくるのである。

 これはいったいどういうことなのだろうか。

 一つの考え方は,読むごとに自分が成長している,というものである。一度目に読んだとき(あるいは書いたとき)と二度目に読むときでは自分の方が成長あるいは変容しているので,読む度に不備な点,言ってみれば未熟な点に気がつくのだ,という解釈である。

 実際,院生時代に書いた論文などを読み直すと,あまりの未熟さに恥ずかしくなってしまうことも多い。あまりに「簡単な論文だ」とかあまりに「単純に過ぎる」というようなことである。

 しかし,さすがに院生時代と今とを較べれば,それは成長してもいるだろうが,今回のように1回目の読み返しと2回目の読み返しとの間は,せいぜい数日というところで,そんな短いスパンで成長しているとは思えない(していればありがたいことだが)。

 となると,この解釈は却下で,次の解釈である。

 次の解釈(候補)は,我々はより気になるところが目につくために,より気にならないところは気にならない,という解釈である。

 つまり,1回目に読むときは,「気になる部分」のうちの,「より気になる部分」のみが目に付くので,そこを修正することになる。

 すると,2回目に読むときには,より気になる部分は修正されてしまっているので,残った「気になる部分」のうちの,「より気になる部分」というのが気になることになる。

 こういう,矢がいつまで経っても的に届かないというパラドックスが如く,修正がいつまで経っても終わらない,ということである。

 こういうことはありそうな気がする。

 実際,学生の書いた論文を添削修正する,というようなことを繰り返していると,自分でも意識的にこういうことをしているので(つまりより気になる部分のみを指摘して修正を求める),自分の中でもそういうことはあってもおかしくないだろう。

 これと,似ているようで若干違う仮説は,ゲシュタルト心理学的な仮説である。

 つまり一部分を修正することにより,「全体」が影響を受け,全体の見え方が変われば,修正したくなる部分も変わってくる,という仮説である。

 これもこれでありそうだ。

 「こっちがこうなってるのにそっちがそうなってるのはおかしい」といったようなことは,当然起こりうることであるし,全体が部分によって構成されると同時に全体が部分を規定するはずである。

 そうすると,部分を修正するたびに,全体像が変化し,これに対して最適な部分像が変容し…という形で,こちらはいたちごっこのような感じで修正が終わらないわけである。

 

 なんてことをつらつら考えていても,締め切りというのは来るわけで,結局なんとか力ずくで校正を終えなければならないわけである。

 なら,ブログとか書いてないで校正やれよ,って話ですけど。

 

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