写真を撮らない

  日本心理学会に出席するため,北海道に出張していた。

 カニだのイクラだのスープカレーだのラーメンだのの,いろいろとおいしいものを食べてきたのだが,今,帰ってきて気がついてみると,そういうものをちっとも“写メ”っていない自分がいる。
 自分の中では,週に1,2回,というようなけっこうなペース(これは週ごとというよりも,月ごとに見れば7〜9回,という単位で考えているのだが)で,ブログを書いているつもりなのだが,どうも自分はブロガーとしての自覚に欠けているのではないかと思う。
 もちろん,今回の学会出張中も,特にこのブログを読んでくださっている方などとご一緒させていただいた時などに,「あ,これはブログに書かないと…」とか「そのネタでブログ一本行けますねぇ」とか「川上先生,これブログに書いて下さいよ」などと冗談交じりの会話を交わしてはいたのである。
 そして,もろもろの出来事については(諸々の差し障りを考慮した上で)追々書いていくかもしれないが,何て言うか,食べ物の写真とかを全然撮っていない自分にあらためて驚いていたりするわけである。
 北海道でおいしいものを食べる,などという経験(“体験”という表現の方がしっくり来るかもしれない)と,いわゆる写メというビジュアル的なその記録は,ブロガーとしてはまさにおいしいネタであるはずだと思う。
 けれども,そういう写メを一切撮っていない,というか撮る気になっていない,というのは,ブロガーとしてどうなのか,自分,とちょっと思ってしまうわけだ。
 実は,学会出張中も,くだらない写メ(さっきから何度も写メ写メ言っているが,実はこの略語にも思うところがあるのである。それについては後で展開することにする)自身は何枚か撮っていて,これらについては(諸々の差し障りを考慮した上で)追々ブログにも書いていくかもしれないが,何て言うか,“日々の生活”的なものをビジュアル的な記録に残すことに対しての情熱があんまり無い,自身の属性をあらためて認識したわけである。
 やっぱり一般的なブログを書く一般的なブロガーではないのかもしれない。
 しかしながら,この認識自体もブログを書いているからこその認識であり,まさにブロガーとしての認識であると言えるのかもしれない。
 この辺り,逆説的でなかなかおもしろい。
 
 ところで,先の“写メ”の件について,既にお気づきの方も多いと思うが敢えて展開する。お察しの通り,“写メ”とは“写メール”,おそらくは“写真メール”の略語である。
 けれども,我々はこの言葉を,敢えて言うなら“ケー写”という言葉の代わりに使っているではないか。
「写メ撮って良いですか?」とかのコメントを学生からよく聞くけれど,これは,極めて高い確率で「携帯で写真撮って良いですか?」という意味であり,「写真を添付して送る形式のメールを作成するための写真を撮って良いですか?」という意味ではない。
 つまり我々は写メという略語を“ケータイ写真”,略して“ケー写”(もちろんいずれも造語である)を指す言葉として使用しているのである。
 ちっとも“メ”ってないじゃん。
 いわんや“写メる”という動詞に至っては,これは,ちっともメールすることを指さないはずで,むしろ写真を撮影することを指すのであるから,これまた強いて言うならば“メ写る”とでも言うべきなのではないか。
 音的には嫌だが,これからみんなで「メシャる」を流行らせていこう(もちろん冗談である)。
 というのが,写メの気に入らない点であるのだが,これについては基本的には以前のブログ(「省略にダメ出しする」)で展開したポイントと同様であるので,ここではこれ以上展開しない。
 ということで,やっぱり旅行記みたいなものには,なかなかにならないこのブログである。
 それをブログと言い張ることと,メールではないものを写メと呼ぶことと,どっちもどっち,って話ですけど。
 

コメント (2)

fand:

学会ではお疲れさまでした。

先生と別れたあと,子どもは急に饒舌になっていました。
やはり,新奇な刺激に対応できていなかったようです。

あれから観光していたのですが,子どもは自分が大丈夫そうなところへいくと
「ここね!来たことあるの!お父さんとお母さんと一緒に!」と力説するのです。
もちろん,初めての場所なのですが,
そういうところでは,親から離れて一人でウロウロできるのです。

自分にとって比較的familiarだということを表現しているのかなと思ったのですが,
妻に話したら,「また直ぐ,そういうwordingを」と言われました。

ただ,あのぐらいの年だと,言葉を字義通りに受け取れませんので,
なんとも言えませんが。

川上:

学会お疲れ様でした。遅れも遅れないようにしないといけませんね(私信)。
お子さんにはやはり怖がられていたようですね。なまはげ的な何かだと
思われていたのかもしれません(ここではこれ以上展開しません)。
さて。
結局,familiarity自体が,まだ一軸の構造をしているのかもしれませんね。
彼女の中に生じるfamiliarityの感覚が,「(お父さんとお母さんと)来た
ことがある」という経験に帰属されている,ということでしょうか。そういう
意味では一種の虚記憶(false memory)と言えるのかもしれません。
またそういうwordingでいろいろ話をしましょう。
あ,それはそれとして“wording”っていうwordingだって,相当なもんだと
思いますよ。

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